内容紹介
「ある朝、目覚めたら、僕は有名になっていた。」 イギリス・ロマン派詩人ロード・バイロン(1788-1824)は、24歳の時に、長編詩『チャイルド・ハロルドの巡礼』第1編・第2編(Childe Harold’s Pilgrimage, Cantos Ⅰ-Ⅱ)を出版した。その直後に語った言葉である。“Childe”とは「貴公子」の意味。バイロンは「貴公子ハロルド」にわが身を韜晦し、ヨーロッパ諸国を旅しながら、読者に語り掛け、透徹した叡智を披瀝した。彼はこの作品で一躍有名になった。その後、28歳の時に第3編を、30歳の時に第4編を出版した。
この長編詩の地理的背景は、イギリス、ポルトガル、スペイン(第1編)。地中海、ギリシア、アルバニア、エーゲ海、トルコ(第2編)。ベルギー、ライン川、スイス(第3編)。そしてイタリア(第4編)である。歴史的・文化的背景は、古代ギリシア・ローマの時代から、ナポレオン戦争で荒廃したヨーロッパ世界。全編にわたって詩行は見事な韻を踏む。
物語詩、叙情詩、田園詩、風刺詩、挽歌の要素を兼ね備え、紀行文としての要素も併せ持つ。この中で語られている内容は、地誌、風土、自然、習俗、伝統、歴史、文学、哲学、自伝、伝記、古典、神話、故事、伝説、警句、宗教、古美術(彫刻・絵画)、建造物、国民、民族、政治、軍事、海事など、多岐にわたる。詩人が吐露する心情・情調は、気品、熱情、自由、愛情、信念、独立、豪壮、放蕩、道楽、洒落、滑稽、人間嫌い、失望、懐疑、揶揄、皮肉、批判など、これも多岐にわたる。
編者は、1998年までに九州大学出版会より第1編~第3編の詳注を刊行した。本書は、その掉尾を飾る第4編の詳注である。原詩の語意の解説は全てThe Oxford English Dictionary を使用。内容の解釈は入手可能な数多くの原書を参照した。年譜・バイロンの旅程、地図、図版、構成、索引などを含めて、長編詩の全貌を紹介する。
バイロンは、1817年4月17日にヴェネツィアを出発、南下して29日にローマに着いた。5月20日にローマを離れ、28日にヴェネツィアに帰着した。第4編は186連1674行。イタリアの古代からロマン派の時代までの全貌を網羅した大絵巻物となっている。地理的背景は次のようなものである。
水の都ヴェネツィアの栄光と衰退。黄昏時のブレンタ河畔、高峰フリウリ遠望。ペトラルカゆかりの村アルクワ・ペトラルカ。フェラーラ、タッソと暴君アルフォンソ2世。花の都フィレンツェと傑人たち。トラジメーノ湖、大殺戮の古戦場。ウンブリア、水明爽やかなクリトゥンノの泉。大瀑布カスカタ・デレ・マルモーレ。ホラティウスが激賞した孤峰ソラクテ。永遠の都ローマの栄華と廃墟。アッピア街道、メテッラの巨大な墳墓。そして、地中海の大海原を遙かに望むアルバーノ山地、ネミ湖とアルバーノ湖。
この第4編の後世への影響は、文学、音楽、絵画、映像などの分野で甚大なものであった。主なものに、ベルリオーズの交響曲「イタリアのハロルド」、リストの交響詩「タッソ、悲哀と勝利」。ターナーの「ヴェネツィア、 嘆きの橋」、「貴公子ハロルドの巡礼―イタリア」、「テルニの滝」(「マルモーレの滝」)、「ローマ、虹のかかったフォーラム」、そして「月下のコロセウム」がある。
長編詩『チャイルド・ハロルドの巡礼』の反響は世界的なもので、欧米はもとより、日本においても同じであった。明治20年に帝国大学(東京大学)に日本初の英文科が設置され、英語教師ジェイムズ・メイン・ディクソンは、『チャイルド・ハロルドの巡礼』を、講読のテキストの1つとして使用し、在学中の夏目漱石は読んだ。与謝野鐵幹は、詩歌集「鐵幹子」の「人を戀ふる歌」第4節で、第三高(京都大学)の寮歌(「紅萌ゆる岡の花/早緑匂う岸の花」で始まる歌、作詞 澤村胡夷)の第4節で、この長編詩を念頭に置いている。明治34年3月刊の『中学唱歌』に掲載された名曲「荒城の月」(作詞 土井晩翠、作曲 滝廉太郎)は、バイロンが第3編で描く、ライン河沿いに聳える古城を描いた部分にヒントを得たものである。
天才詩人バイロンの人生哲学は、万世にわたる啓蒙書として、歴史に残っている。