書評
日本フランス語フランス文学会広報誌「Cahier」 第6号より 評者:
井上富江氏(別府大学)
著者中内克昌氏は、1969年に福岡大学人文学部に奉職され、以来それまで温めてこられていたフランス南仏文学、特に南フランスを活躍の場としてヨーロッパ中世に花開いたトルバドゥールの研究に打ち込まれた。それまで研究する人の限られていた分野にあえて飛び込まれた理由は、詩歌を吟じながら宮廷から宮廷へ、町から町へと各地を巡り歩いていたトルバドゥールのロマンに惹かれたからだと著者のあとがきにも書かれている。
この著作は著者が福岡大学人文学部論叢に1991年から、1992年、1994年、1996年、1997年に引き続き執筆された「アキテーヌ公ギヨーム九世」と、同じく論叢に執筆された「中世南仏詩における『アムール』について」(1970年)「トルバドゥールと政治風刺」(1971年)「トルバドゥールにおける『愛』の系譜」(1973年)「トルバドゥールの伝記」(一)(1976年)、「オクシタニー言語事情」(1982年)をもとに執筆されたものである。
ギヨーム九世といえば当時のフランス王よりも大きな領土、すなわちポアトウ、リムーザン各地方のロワール河畔からガスコーニュ地方、トゥールズ伯領との国境近くのピレネー山脈にまでおよぶ広大な地方を持ち、実にフランスの領土の1/3近くを占める大領主であった。彼自身はその領土を維持、守るために言い表すこともできないような努力をしたことがこの本に書かれているが、天性のエピキュリアンであり、豪放磊落、並ぶもののないドンファンとしてのイメージが定着している。
南仏に花開いたトルバドゥールたちの祖であり、ヨーロッパの俗語(古オック語)で書いた最古の詩人でもある。何よりもその才能は孫娘エレオノール・ダキテーヌによって受け継がれ、南仏の宮廷文化の礎を築いたことは否定することのできない事実である。この著作はそのギヨーム九世の人と作品を丁寧に紹介するものである。
彼の作品は11編残されているのだが、その作品が我々の目に触れることは、きわめて珍しい。大抵のトルバドゥール紹介文中でもただ「最古のトルバドゥール」であり、「女性に対する大胆な官能的な叙述の詩が多く残されている」程度のものしかない。ましてその他の繊細な、女性を讃える、その後のトルバドゥールの詩に共通のFin‘ Amor(フィナモール)を歌う詩が紹介されることは稀である。特に氏が研究した頃は資料も限られ、研究には多大の時間と努力が必要であったことは容易に想像がつく。今でこそCDもCD-ROMも発行され、そのメロディーも労せずして聞ける便利な著作が出版された。トルバドゥールの文学は思いの他簡単に聞け、詩もコンピューター上で手に入れられる環境になったが、氏が研究された頃はそんなものは出版されていなかった。ひたすらRazo、Vidaと呼ばれる詩人の伝記を読み、その詩を古オック語で読む為に辞書を引きまくったであろう。
この本の中にはギヨーム九世の作品すべてが原文のまま紹介され、作品の解説と詩型の説明もきちんとされている。今まで謎の多かったギヨーム九世の生涯もきちんと叙述されている。RazoもVidaも縁のない読者も、そのファブリオともまがう少々下品な詩から優美なフィナモールを歌う詩まで、通して楽しむことができる。訳したくもない卑猥な表現も、嫌な感じを与えることのない訳でさらりと流している。全ての作品を通して、その人となりをじっくり味わうことができるというのは、我々文学に携わる者としてこのうえない幸せである。メロディーについてはほとんど触れられていないのは少し残念ではあるが、4角形の楽譜も残され、彼自身の宮廷はもちろん、あちこちの宮廷で歌われたものなのでここに資料を紹介しておこう。CDについてはGérard ZUCHETTOのTerre des Troubadours(éd de Paris, 1996)、CD-ROMに関してはPeter T. RICKETTSのConcordance de l’occitan médiéval(COM I), Turnhout, Brepols, 2000をお薦めしたい。
まずは手始めにこの著作を読まれ、興味を持たれた方は上の著作を楽しんでほしい。