ヘルダー民謡集
内容紹介
本書『ヘルダー民謡集』は、ヘルダーが生涯を通じて関心を示しつづけた世界各地の民謡162篇に、彼の死後の1807年に刊行された改訂版『歌謡における諸民族の声』からの補遺15篇を加えたものである。これらはいずれも本邦初訳である。『民謡集』にはヘルダー自身がさまざまな書物から蒐集および翻訳した世界各地の民謡や伝承などが収められており、ゲーテの有名な「野ばら」や「魔王」の原点ともなった作品も含まれている。その内容は、恋愛から戦争に至るまで多岐に及び、およそ人間が直面する生の根源的な諸状況が、特に女性や子どもといった社会的弱者の視点から描かれている。なかでも多く扱われるのが戦争である。たとえばレコンキスタ(再征服)時代のグラナダの内戦を扱ったスペイン語のロマンセからの翻訳「アルカンソールとサイーダ」ではイスラム教とキリスト教の対立が、また英語のバラッドからの翻訳「チェヴィーの狩」では14世紀におけるスコットランドとイングランドの対立が個々の登場人物の視点から生々しく描かれる。
そもそも「民謡」を意味するVolkslied(フォルクスリート)というドイツ語がヘルダーによる造語であり、特に前半のVolkという語をヘルダーは多義的に用いている。すなわちVolkはヘルダーにあって三つの意味を有している。一つは種属に関する名詞として「人間であること、人類」を、もう一つは身分制的観点から「王侯貴族」に対する「一般庶民」を、そして三つ目に地球全体におけるそれぞれの「国民、民族」を意味している。それゆえヘルダーにあっては、地域や時代や身分など人間の個々の属性に束縛されることなく、人間であれば誰でも歌い、自己を表現するということが「民謡」の前提となっている。こうした観点は、当時の啓蒙主義的文学観にあって低俗なものと見なされがちであった「民謡」の地位を見直すとともに、ゲーテの言葉を借りれば「人類の共有財産」としての文学全体に対する新たな理解を要請するものであった。それはまた人類の歴史において、どの時代や民族も公平な視点から考察するヘルダーの歴史哲学と不可分の関係にあり、歌はすべての人間が自らの言語を通じて自己を表現する最も重要な手段として理解される。英語の「バラッド」やスペイン語の「ロマンセ」に続くものとして、あるいはそれらを超えるものとしてヘルダーは「フォルクスリート」に、個別的であると同時に「人類の歌」としての普遍的な意味を持たせようとしている。
『ヘルダー民謡集』はその構成も周到に考えられており、第一部と第二部がそれぞれ三つの巻に分かれ、各巻にはまたそれぞれ24の歌が置かれている。しかもそれらは各時代や地域、あるいは民族ごとに区分されているのではなく、それぞれの巻に種々の時代、地域、民族が巧みに配置されている。その目的の一つは、当時の文学界でまだ規範的な地位を有していた古典古代のギリシアやローマを相対化することにあり、たとえば第二部第二巻では婚礼という同じ主題を扱うギリシア語の歌とリトアニア語の歌が並置されている。こうした人類全体に対する相対的な視点は、ヘルダー思想の根幹にあるフマニテートの理念から生まれたものであり、『ヘルダー民謡集』に収められた170篇を超える歌は、それぞれの時代や地域に置かれた人間が、その置かれた個々の場所から人類全体を照らし出す役割を果たしている。それゆえ本『ヘルダー民謡集』は、ヘルダーにおけるフマニテートの理念を具体的に理解するためにも不可欠な作品であると言えよう。
目次
民謡集 第一部
民謡に関する証言
第一巻
1 若い伯爵の歌(ドイツ語)
2 美しいローゼムンデ(英語)
3 病んだ花嫁(リトアニア語)
4 少女の別れ歌(リトアニア語)
5 沈んだ婚約指輪(リトアニア語)
6 嫉妬深い若者の歌(ドイツ語)
7 アルカンソールとサイーダ(英語)
8 サイードとサイーダ(スペイン語)
9 サイードからサイーダへ(スペイン語)
10 サイーダからサイードへ(スペイン語)
11 サイーダの悲しい結婚式(スペイン語)
12 愛の羽ばたき(ドイツ語)
13 不幸な母の子守唄(スコットランド語)
14 ハインリヒとカトリーネ(英語)
15 海辺の少女(英語)
16 ウルリヒとエンヒェン(ドイツ語)
17 グラナダの栄光(スペイン語)
18 アベナーマルの不幸な愛(スペイン語)
19 船乗り(スコットランド語)
20 ターラウのアンヒェン(低地ドイツ語)
21 三つの問い(英語)
22 草原(英語)
23 レースヒェンとコリン(英語)
24 陽気な結婚式(ソルブ語)
第二巻
1 少女とハシバミの木(ドイツ語)
2 庭を失う少女の歌(リトアニア語)
3 若い騎士の歌(リトアニア語)
4 不幸な柳の木(リトアニア語)
5 傷を負った子どもの話(ドイツ語)
6 ユダヤ人の娘(スコットランド語)
7 ヴィルヘルムとマルグレート(スコットランド語)
8 ミロス・コビリッチとヴーク・ブランコヴィッチの歌(モルラック)
9 ドゥスレとバベレ(スイス)
10 おお、悲しい、おお、悲しい(スコットランド語)
11 どうか、おお、その眼差しを向けておくれ(シェイクスピアより)
12 朝の歌(シェイクスピアより)
13 いくつかの魔法の歌(シェイクスピア『嵐』より)
14 妖精の丘(デンマーク語)
15 アンガンテュルとヘルヴォルの魔法の対話(スカルドによる)
16 ハーコン王の死の歌(スカルドによる)
17 戦いにおける朝の歌(スカルドによる)
18 戦いの歌(ドイツ語)
19 ガスルとリンダラハ(スペイン語)
20 ガスルとサイーダ(スペイン語)
21 花嫁の花冠(スペイン語)
22 エストメア王(英語)
23 最初の出会い(リトアニア語)
24 憧れの小唄(ドイツ語)
第三巻
1 外套を着た子ども(英語)
2 ファルケンシュタインの領主の歌(ドイツ語)
3 森の合唱(シェイクスピアより)
4 森の歌(シェイクスピアより)
5 或る農夫の葬送歌(シェイクスピア『シンべリーン』より)
6 捕えられたアスビオルン・プルーデの歌(スカルドによる)
7 雹まじりの嵐(スカルドによる)
8 血染めの流れ(スペイン語)
9 セリンダハ(スペイン語)
10 愛(ドイツ語)
11 トナカイに寄せて(ラップランド語)
12 自由の歌(ギリシア語)
13 願い(ギリシア語)
14 客人を讃えて(ギリシア語)
15 幸福な男(英語)
16 気の狂った少女の歌(英語)
17 恋する男の決断(英語)
18 弔いの鐘(英語)
19 ザクセンの王子誘拐(ドイツ語)
20 テューリンゲンの歌(ドイツ語)
21 デスデモーナの小唄(シェイクスピアより)
22 甘美な死(英語)
23 父を殺され錯乱するオフィーリアの歌(シェイクスピアより)
24 ハッサン・アガの高貴な夫人の嘆きの歌(モルラック)
民謡集 第二部
序言
第一巻
1 漁師の歌(ドイツ語)
2 愛の谷(英語)
3 曙光の歌(フランス語)
4 伯爵夫人リンダ(フランス語)
5 川辺の少女(英語)
6 ぶどう酒礼賛(ドイツ語)
7 踊りの歌(ドイツ語)
8 踊りの中のアモル(ドイツ語)
9 愛の苦しみに抗して(英語)
10 いくつかの小唄(フランス語)
11 花に寄せて(ドイツ語)
12 春の争い(ドイツ語)
13 ナイチンゲールの争い(ラテン語)
14 フランスの古いソネット
15 愛の道(英語)
16 友情の歌(ドイツ語)
17 人間の幸福についての嘆きの歌(英語)
18 月桂冠(フランス語)
19 愛へ急ぐ(ドイツ語)
20 結婚の幸福(英語)
21 編み物をする少女(英語)
22 こだま(スペイン語)
23 心と眼(ラテン語)
24 修道院の歌(ドイツ語)
25 音楽の魔力(英語)
26 希望の歌(イタリア語)
27 嫉妬深い王(スコットランド語)
28 マレーの殺害(スコットランド語)
29 小川の歌(ドイツ語)
30 夕べの歌(ドイツ語)
第二巻
以下のいくつかの歌についての情報
(1)エストニアの歌について
(2)ラトヴィアの歌について
(3)リトアニアの歌について
(4)グリーンランドの死者の歌について
(5)ラップランドの歌について
1 いくつかの婚礼歌(エストニア語)
2 専制的支配者に対する農奴の訴え(エストニア語)
3 婚礼の歌(ギリシア語)
4 花嫁の歌(リトアニア語)
5 愛する女性のもとへの旅(ラップランド語)
6 ギリシアの歌の断章
7 ラトヴィアの歌の断章
8 春の歌(ラトヴィア語)
9 牢獄でのエリザベスの悲しみ(英語)
10 健康に寄せる歌(英語)
11 栗色の少女(スコットランド語)
12 田舎の歌(スコットランド語)
13 死者の歌(グリーンランド語)
14 ダースラの弔いの歌(オシアンより)
15 フィランの幻影とフィンガルの盾の響き(オシアンより)
16 昔の歌の思い出(オシアンより)
17 幸福と不幸(スペイン語)
18 嘆く漁師(スペイン語)
19 短い春(スペイン語)
20 銀の泉(英語)
21 愛における自由(ドイツ語)
22 寓話の歌(ドイツ語)
23 野なかのバラ(ドイツ語)
24 唯一の愛すべき魅力(ドイツ語)
25 北方の魔術(デンマーク語)
26 水の精(デンマーク語)
27 魔王の娘(デンマーク語)
28 ラドスラウス(モルラックの物語)
29 美しい女通訳(モルラックの物語)
30 領主の食卓(ボヘミア)
第三巻
1 ヴォルスパ
2 雨の女神に寄せて(ペルー)
3 女予言者の墓(北方)
4 歌の魔力(北方)
5 エドワード(スコットランド語)
6 死の女神たち(北方)
7 チェヴィーの狩(英語)
8 ルートヴィヒ王(ドイツ語)
9 アルハマ(スペイン語)
10 戦争の歌(エストニア語)
11 戦いの歌(ドイツ語)
12 相手にされなかった若者(北方)
13 婚礼の歌(ラテン語)
14 船出する新郎新婦(スペイン語)
15 花嫁の飾り(スコットランド語)
16 当然の不幸(スコットランド語)
17 心配(イタリア語)
18 乞食の歌(スコットランド語)
19 司祭の結婚のために(ラテン語)
20 獄中の歌(英語)
21 苦難と希望(ギリシア語より)
22 春の宮殿(スペイン語)
23 比べられないもの(英語)
24 蝶の歌(ドイツ語)
25 ヴィルヘルムの亡霊(スコットランド語)
26 氷上の踊り(ドイツ語)
27 花嫁の踊り(ドイツ語)
28 宮廷の歌(ドイツ語)
29 春の歌(イタリア語)
30 夕べの歌(ドイツ語)
補遺 『歌謡における諸民族の声』(一八〇七年)に追加された作品
1 男やもめ(エストニア)
2 死んだ花嫁を悼む(タタール)
3 聖母マリアに(ラテン語)
4 シチリアの小唄(イタリア語)
5 或る捕虜の歌(スペイン語)
6 遠く離れた女性(スペイン語)
7 憧れ(フランス語)
8 デスデモーナの歌(フランス語)
9 バルトーの息子(フランス語)
10 一つの格言(ドイツ語)
11 いくつかの格言(ドイツ語)
12 領主の石(ドイツの伝説)
13 山から来た馬(ボヘミア)
14 マダガスカル人の歌(フランス語)
(1)王
(2)戦いの中の王
(3)王の息子の死を悼む歌
(4)白人を信じるな
(5)ザンハルとニアング
(6)アムパナニ
(7)木の下の王
(8)王の怒り
(9)非情な母
(10)不幸な日々
15 彼の恋人に(ペルー)
訳注
解題
あとがき
人名索引
歌の索引
著者紹介
嶋田洋一郎(しまだ よういちろう)
1982年、上智大学大学院文学科ドイツ文学専攻修士課程修了。
現在、九州大学大学院比較社会文化研究院教授。
著訳書
『ヘルダー旅日記』(翻訳、九州大学出版会、2002年)
『ヘルダー論集』(花書院、2007年)