内容紹介
本書は、Laurel Thatcher Ulrichによって1990年にアメリカで出版された A MIDWIFE’S TALE: The Life of Martha Ballard, Based on Her Diary, 1785–1812 の翻訳書である。歴史学者ウルリッヒの代表作である原書は、1990年にバンクロフト賞、アメリカ歴史学会のジョン・H. ダニング賞、その年の最もすぐれた女性史研究に贈られるジョーン・ケリー賞を受賞したほか、翌1991年にはすぐれたアメリカ史の書籍に与えられるピューリッツァー賞も受賞した。
原書は、18世紀後半から19世紀前半、アメリカ開拓時代のニューイングランドの助産婦マーサ・バラード(1735–1812)が残した日記(1785–1812)と、新聞・センサス・裁判記録・税務記録、他の人物による書簡や日記等の膨大な資料とをウルリッヒが分析し、当時の医療や家庭生活・性風俗・地域経済・宗教的対立・政治的背景などを再現した、社会史の名著である。
本書の各章冒頭では、まずマーサの日記が10–20日分ほど引用される。日記原文はいずれも簡潔で淡々とした日々の記録であり、これまで歴史家たちからは、日記の大部分は瑣末で重要性に乏しいとされてきた。しかし、ウルリッヒはその短い文章の中に埋め込まれた様々な事柄を、日記の別の部分の記述や調査・発掘した膨大な関連資料とつきあわせて丹念に分析することで、激動の時代であった初期アメリカの社会変動と、晩年まで天職をまっとうした真摯で強靭で心優しいひとりの女性の人生を、生き生きと描き出すことに成功している。
各章では、荒れる大自然に抗い仕事に出かける勇ましいマーサの姿、医師・看護婦・薬剤師の役割も兼ね、埋葬にも関わった助産婦の仕事の具体的な様子、出産介助に次第に男性医師が参入していく過程、薬草栽培・畑作り・糸紡ぎ・機織り・家事などの記録に残りにくい女性たちの日常生活と「女性経済」、宗教的対立とレイプ事件の顛末、結婚が成立していく過程と婚前・婚外交渉による妊娠・出産、夫イーフレムの測量の仕事から見える大地主と開拓者の土地所有権をめぐる争い、地域社会を震撼させた一家殺人事件、50–77歳のマーサが直面する家庭内のもめごとや老いの現実、人生最期の4ヶ月間に出産介助に奮闘するマーサの姿、などが描き出される。晩年まで技術をもって地域のために働くマーサの姿には、読者の胸を打つものがある。全編を通して女性史的視点が堅持され、最終章では、アメリカの医学界を牽引した、マーサの子孫の女性たちについてもふれられている。
本書は、アメリカ史だけではなく、家族史、医療史、経済史、ジェンダー研究、アメリカ文学にかかわる学術書としても価値がある。さらに、一個人の経験を地域史に位置づける手法は、社会学やライフヒストリー研究の研究者にとっても大いに参考になるだろう。