内容紹介
本書はそれぞれ四章から成る「自己の中の外部」、「自己と外部」と題する二つの部で構成され、全体で七編の19世紀、20世紀のイギリス小説を考察する。
第一部の題「自己の中の外部」は、自覚的な意識が及ばない、自己の中のいわば外部である無意識を指している。今日私たちは、フロイトやラカンの高度に洗練された精神分析の知見の影響下にあるが、19世紀のイギリスの作家たちは、「無意識」についてもっと素朴な洞察を独自に持っていて、それを作品に描いている例があると考えられる。本書の第一部の目的は、個々の作品に固有の問題に密着しつつ、そうした無意識の表現の特異な例を明らかにすることである。例えば、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』には、純朴そうな家政婦ネリー・ディーンが、作品中のさまざまな災いの原因となっている、という問題があるが、第一章では、そのようなネリーを主要な語り手とすることで、『嵐が丘』がネリーの意識と無意識の乖離、特にその無意識の悪意を大がかりに描いている、という解釈を提示する。こうした無意識に関わる表現を、第二章ではジェイン・オースティンの『高慢と偏見』の主人公エリザベス・ベネットの「自己認識」の瞬間における無意識の自己欺瞞に、第三章ではチャールズ・ディケンズの『大いなる遺産』の主人公ピップが恩人マグウィッチに抱く無意識の殺意に、第四章ではR. L. スティーヴンスンの『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』の弁護士アタスンが、知らず知らずのうちに彼が思い描くハイドの人物像に似通っていく変化に見る。
第一部の題を「自己の中の外部」としたのは、特に『大いなる遺産』と『ジキルとハイド』で、無意識の悪が外部の分身的な人物との関係を通して描かれていることにもよる。そのように人の内部の深奥が外部と関わってくることは第一部の考察でも重要な問題だが、第二部「自己と外部」ではそうした錯綜した自己と外部の関係の主題を四編の作品を通して考察する。具体的には、第五章では、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の主人公ドリアンが真の自己として外部のものを取り込むことに、第六章では、E. M. フォースターの『インドへの道』における「異」と「同」の動的な関係と、自己と外部の境界の同時的な存在と不在とに注目する。第七章では、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』に見られる外部による浸食や抑圧からの自己の解放という主題、第八章では『嵐が丘』の主人公キャサリンが、書物が多数の複写によって世に存続し続けるように、自己の複写を外部に残すことで世界の一部であり続けようとすることに注目し、自己と外部の問題を考える。こうして個々の作品の解釈を試みながら、イギリス小説における自己と外部の複雑な関係の表現を、広汎な視野で考察することが本書の全体の目的である。