内容紹介
20世紀を代表する哲学者ハイデッガーは、終生「存在」を考えたと言われる。しかし何事も、有名であるからと言って、それがよく理解されているとは限らない。ハイデッガー哲学の主題である「存在」も、そういうものの一つである。一般人は「存在」など分かり切ったことだと思っているし、哲学研究者は、有名なハイデッガーが言っているのだから、「存在」はきっと重要な問題に違いないと信じている。いずれの場合も、「存在」がどういう問題なのかは、ハイデッガーの努力に反して、ハイデッガーの登場後も、容易に見逃されてしまうのである。
では、「存在」とは何なのか、「存在」を考えるとはどういうことなのか。真正面から問題にすれば、そんなことは分かり切ったことだと思っている一般人も気懸りになってくるだろうし、哲学研究者は、哲学を専門にする以上、ハイデッガーの仕事を真剣に受け止めようとすれば曖昧なままに放置しておけなくなるだろう。では、その「存在」について私たちは、一体どこから、どのようにして、さらに何を知ろうとするのだろうか。常識的に考えれば、これほど簡単なことはない。つまり、「存在」を探究するには、それを自らの生涯唯一の課題としたハイデッガーの、その膨大なテキストを手懸りにするのが、一番適切で有効な方法である、このように思われる。だが、これは本当だろうか。ハイデッガーの問題にした「存在」を理解するのに、当のハイデッガーのテキストを手懸りにするのは、誰かの証言や記録をそのまま正しいと判断して鵜呑みにするのと同じで、権威に追随して過信や盲信に陥ることにはならないだろうか。ハイデッガーが「存在」について考えたことがどういうことなのか、それを知るにはやはり、自ら事柄そのものに問いかけ、もう一度「始めから考える」ことが必要なのではないだろうか。本書は正に、この当たり前と言えばあまりにも当たり前な道を、しかしながら、権威や文献を元の事柄そのものに引き戻して理解しようとする限りでは、とても危険で孤独な道を辿って、ハイデッガーの考えた「存在」を考え直そうとする試みである。
本書は二部から構成される。第I部では、ハイデッガーの問題とした「存在」へ接近するために、いくつかのトピックの考察が展開される。それは、技術、芸術、不気味さ、理性、死などである。これらの考察を通して、第I部の最後で、現時点での、著者の最終的な「存在」の理解が提示される。第II部では、ハイデッガーが最も真剣に対決せざるをえなかったニーチェの哲学を、ハイデッガーのニーチェ解釈と距離を置きながら、その主要なキーワードに即して解釈することが試みられる。それは、力への意志、永遠回帰、すべての価値の価値転換である。ハイデッガーのニーチェ解釈は、ハイデッガーにとって自らの哲学の正しさを裏付けるためには避けて通れない必須の課題であったが、そうである以上、ハイデッガーとは別にニーチェ哲学の解釈を試みることは、ハイデッガー哲学の位置をニーチェの位置から、時代を逆行して、外側から相対化して測ることを可能にしてくれると期待されるからである。実際、第I部の最終章は、第II部の作業を終えた後に書かれたのである。
本書が「存在」の探究に関してどこまで進みえたか、それは、この問題に対して真面目な関心を持つ読者諸氏の判断に委ねることにしたい。