内容紹介
『ニュー・アーケイディア』(初版1590年)は、シドニーが女王への愛国的忠誠心からアランソン公との結婚に反対して女王の逆鱗にふれて宮廷から追放され、妹宅に蟄居中、不遇の憂さ晴らしに書き始められた遊びであったが、皮肉にも彼の代表作にして英国ルネッサンス・パストラルロマンスの最高峰として結実したのは幸福な歴史的逆説の一例であった。権力闘争に明け暮れる宮廷の醜い現実を熟知した廷臣詩人シドニーだからこそ、現実にはあり得ない夢の牧歌的理想郷(アーケイディア)を想定し、想像力の翼を思い切り羽ばたかせて飛翔することができたのであろう。
花咲く果樹園、囲われた庭の楽園幻想、ラドン川清流に水浴する乙女たちの裸身、秋の森がもたらす豊穣の食卓と収穫祭、想い人の肖像画を掲げてその美を競う華麗なる馬上槍試合、鷹狩り、羊飼いたちの歌合わせなどの牧歌的世界。他方、牧歌世界の表面的なの平和の裏にひそむ危機、理性を圧倒する愛欲、遍歴を重ねた異国からの二王子の思わぬ来訪に、色めく老若男女が奏でる叶わぬ恋の狂詩曲。不動の美徳に憧れながら罪に赴き、時とともに己の反対物に変容する自己矛盾と不確実性。表層と違うものを隠しもち、互いの真偽を疑い、女装、偽装にすれ違う主人公たちの滑稽譚。逆境における青年男女の冒険と精神的成長。強圧的母性がもたらす恐るべき災禍。報われぬ善意と真心の悲哀と不条理。老王の時ならぬ田園への隠棲と、政務放棄に激怒する住民たちの暴動反乱。民意に対応すべき為政者の責任義務、暴君暴政、側近の役割、身分制格差社会、自然と人工、田園と都市の調和など。シドニーの『ニュー・アーケイディア』は、理想郷の夢幻世界と不完全な人間の生の現実を対比させて、英国ルネッサンス初産パストラル・ロマンスの代表作となったばかりでなく、自然の浄化力を称えるテオクリトス流の大陸の牧歌の伝統とは逆に、美しい自然にあってもなお浄化されない「自然界のあらゆる秘密のなかでもっとも暗い闇である人間の心の闇」の満たされぬ欲望と解決し難い矛盾を深く描いて、近代心理小説の先駆けとなったのである。
特に、シドニーの分身といえる理想の騎士アムファイアラスがフィロクリア姫に捧げる愛がことごく裏目に出て、絶望死する第三巻のくだりは、望んだ政治的中枢での活躍から遠ざけられながら、公益的活動への渇望やみがたく、筆を折って未完の原稿を親友のグレヴィルに手渡し、死を覚悟して激戦地に赴いたシドニーの最後の心境を思わせて痛切である。文の途中で終わっている絶筆に、絶頂期の若さの最中に生からひきちぎられて、死地に赴く有為の青年の決意と無念が込められて胸に迫る。アムファイアラスの死を悼むエレジーも感動的で、シドニーの若すぎる死を悼んで書かれた多くのエレジーを予告する絶唱である。盛期英国ルネサンスの代表的作品でありながら、現代にも通ずる普遍的問題への関心にも十分耐えうる稀有なこの傑作を多くの次世代にわたすために、ここに新装復刊を致す次第である。