内容紹介
本書は、およそ9-15世紀のイスラーム社会における〈同性愛〉という概念が芽生えていく過程を明らかにするものである。一般に、現代に至るまでイスラーム法では同性愛が禁じられているが、歴史的には男性同士の性愛が文学作品などに広く描かれている。本書は、このような状況を歴史学的に理解するため、様々な事例を文献に則って具体的に示すと同時に、「近代の産物」とされる「同性愛概念」に類似したものが、イスラーム社会において前近代において芽生えつつあったことを明らかにする。
序章から第1章まで、かなりの紙幅を割いて、本書の前提が入念に記される。まず、そもそも現在我々が一般に想像する「同性愛」とはどのようなものか、それがどのように「構築」されて「誕生」するに至ったとされてきたかが、「同性愛」研究の文脈を辿るかたちで明示される。そしてそれがイスラーム史ではどのように捉えられてきたかが、イスラーム史研究の道程に沿って示される。そこで本書の方針が定められ、抽出された必要な要素が、以下の各章で有機的に説明される。また第2章で示される、性愛にまつわるアラビア語史料の類型は、本書を読む上での明瞭な道筋となると同時に、今後この分野を学ぶことを志す者にとって有益なガイドとなるかもしれない。
第3章から第6章で展開される内容では、様々なアラビア語史料から、〈同性愛〉概念が芽生えてゆく過程が、当時の社会背景とともに明かされてゆく。逸話集を中心とした文学作品をはじめ、医学史料や性愛学文献、人名録や年代記まで多種多様なアラビア語史料が歴史学的手法によって扱われる。そこからは、当時の社会通念や権力構造、ジェンダー規範などが浮かび上がり、「同性愛」の問題に限らず当時の多様なセクシュアリティのあり方が広く、社会との関連から明かされる。また付録として付される、9世紀のアラビア語逸話集『ジャーリヤ(女奴隷)とグラーム(少年奴隷)の美点の書』の訳注は、それを扱う本書内の論考の説得力を増させると同時に、日本語で当時の世界観を味わうことのできる貴重な機会を提供する。
かなり大胆な問題に挑む本書であるが、イスラーム史に限らず、各地域・時代の社会史や、現代のジェンダー理論など、様々な関心からご一読いただきたい。
●『ジャーリヤ(女奴隷)とグラーム(少年奴隷)の美点の書』の一節
「敬虔で禁欲主義的な人々のなかには、女性器や男性器、性交などにまつわる話になると、嫌気を催し、心を閉ざしてしまう者もいる。あなたの知る大半の者はこのようであろうが、そうした男は、深い知識や高邁な精神や寛大さや落ち着きを持ち合わせておらず、ただ偽善だけがあるような者なのである。」