語りの断層 ドイツ=ポーランド国境地帯の文学
内容紹介
本書は、国境線が幾度も引き直され、民族・文化・言語の混成が進んだポーランド北部・西部国境地帯が、社会主義末期ポーランドからドイツ連邦共和国へ移住した人々の文学において、いかに表象されうるかを論じている。研究対象とするのは、1950年代半ばから60年代、旧ドイツ領にあたるポーランド北部・西部国境地帯に生まれ、ポーランド語を母語とする人々である。冷戦末期の1980年代ポーランドから西ドイツへ移住した彼らは、冷戦終結後、各人各様に移動と定住を繰り返しつつ、ドイツ語ないしポーランド語で創作に従事している。
周辺の列強諸国による支配を受け19世紀という時代に国民国家を持つことを許されなかったポーランドでは、亡命知識人が、ポーランド語による文化活動や創作を通してポーランド民族の歩むべき道を示す、という伝統があった。20世紀になると、ポーランドからの亡命は多様化し、規模も拡大した。パリやロンドンといったポーランド亡命文化の拠点は、在外作家同士の連結点として機能し、良質の文学作品を発信することでポーランド語圏の文化や文学全体をけん引する役目を負った。しかし、ポーランドと歴史的文化的に分かちがたく結びつき、地理的にも近いドイツには、国交正常化条約の締結、労働組合「連帯」の活動を弾圧した戒厳令の施行、東西の冷戦終結、ポーランドの欧州連合加盟などを契機に、ポーランドから政治的亡命者、経済移民、ドイツ系帰還者といった様々な集団が流れ込んだ。そのため、ポーランド人コミュニティの雑種化が進み、伝統的な亡命文化・文学のモデルに当てはまらない文化活動が展開した。本書では、1990年代から2000年代初頭のドイツで繰り広げられたポーランド移民による文化活動を通して、その特徴を明らかにしている。
また、本書では移民作家による文学作品の分析に多くの頁を割く。従来、彼らの文学は亡命文学と対比され、「稼働移住の実態を描く写実的な文学」とされてきた。しかし本書では、①ドイツ・ポーランドにまたがる地域の固有性、②1981年の戒厳令から体制転換を経て2004年に至るまでという時代性、③一人称体という語りの形式、という三つの観点から考察することによって、移民作家の文学の成立から発展の経緯を明らかにするとともに、彼らが時代や環境の変化の影響を受けながらテーマ・題材・手法を変化させてきたことを明らかにした。最終的には、彼らの文学における「国境地帯」が、地理的空間としてではなく、ヨーロッパ東西陣営の視線が交錯する過酷な生活空間、個人の内的分裂の投影先、文学的想像空間といった異質な場の総体として、多層的かつ多角的に表象されていることを示した。彼らの文学の中では、そうした様々なイメージが複数折り重なるように存在しており、境界の種類もその引かれ方も一様ではない。時には文学的想像力を駆使して、時には現実と斬り結びながら、境界というモチーフを変幻自在に操るところに、移民の文学の特徴があると考える。
ドイツ=ポーランド国境地帯の文学を代表する作家には、ダンツィヒのドイツ語作家ギュンター・グラスやシレジアのポーランド語作家オルガ・トカルチュクがいる。本書は、そうした作家たちを含む国境地帯の人々を、ディアスポラの流れを汲むものとして捉える一方で、移民の視点から国境地帯を描くとはどういうことか、という問いを探求する。その意味で、本書は国境地帯の文学の研究に寄与するのみならず、ディアスポラ文学の研究への足がかりとなる。
なお巻末には、本書で取り上げた移民作家のうちの4名に対するインタビューも掲載されている。
目次
凡例
序 章 「移民/移動者の文学」とは
移動の時代におけるディアスポラと地域性/ポーランド北部・西部国境地帯の文学と
文化活動/思考モデルとしての「境界領域」/記憶モードの雑種性/どういう人々な
のか/従来の文学研究におけるアプローチ
第1章 亡命文学からの離脱
第1節 ポーランド亡命文学におけるドイツ
多様化する亡命・移住 「大亡命」から「第二の亡命」まで/亡命の神話化 / 脱神
話化/1945年以降ドイツで行われたポーランド語による文化活動/亡命文学の条件に
当てはまらない雑種性
第2節 西ドイツの在外ポーランド人コミュニティ
地続きの移住のダイナミズム/1980年代西ベルリンのポーランド移民女性/西ドイツ
の在外ポーランド人コミュニティの特徴/二つの神話と脱神話化の運動
第3節 リアリズムとの闘い
脱・亡命/執筆年と出版年のずれ/「移民文学」の成立過程 移民の群像小説が書
かれた1980年代/「移民の文学」というジャンルの形成と「読みの慣習」/移民の
声/密かに聞かれる「わたし語り」 ルドニツキの短篇「人生なんてこんなもの」
第4節 多様化するアイデンティティ ポーランド語文芸誌 Bundesstraße 1
亡命文学の終焉/亡命文学の再評価 ポーランド語文学の再編/ポーランド語文芸
誌 Bundesstraße 1/雑誌の理念/アイデンティティの模索 ポーランド人雑誌か、
ポーランド語雑誌か/「在住作家」でなくなった後に
第5節 ポーランド人失敗者クラブ
クラブ設立の経緯/クラブの活動/リサイクルされる神話/越境の戦略/新しい多文
化主義のモデル/跨境の後に
第2章 「ドイツ=ポーランド国境地帯の文学」への合流
第1節 「小さな祖国の文学」から「プライベートな祖国の文学」へ
1990年代のポーランド語圏に誕生した「プライベートな祖国の文学」
第2節 亡命者でもなく移民でもなく
非ドイツ系ドイツ語作家による文学/移民の詩学 リゾーム
第3節 ノスタルジーの超克(1)
移動者の目でみた地域 短篇「訪問」と中篇「ジャガイモ苦」/主観の相対化/プ
ライベートな過去の想起/大文字の歴史との対決/移民の目で叙述/描写される国境
地帯
第4節 ノスタルジーの超克(2)
多声的なノスタルジー
第3章 既存のディスクールへの挑戦
第1節 意地の悪い本歌取り
「場所の記憶」を共有する相手をもたない人々/故郷の共有 想像と現実/ドイツ語
圏におけるステレオタイプの遊戯的な脱構築/東西文化が衝突する空間の表出
第2節 可変するアイデンティティ
非叙述的言語/美的な価値体系の転覆/アイデンティティの危機/想像力との遊戯/
譬えのそぶり/差異のパロディ/役柄を演じるアイコン/場所性の欠落/
第3節 標準語に対するコロニアルな闘い
ムッシェルの多言語創作/『自由はヴァニラの香りがする』/ジャンルが追求するリ
アリズムの罠/規範化された言語への抗い/アッティカ主義とアジア主義/いわくつ
きの言語
第4章 脱臼する一人称体
第1節 日記・書簡体の応用
連載「ハンブルクからの手紙」と自伝性/自己引用による混淆/文芸批評の式を用い
た混淆/侵入する「作者」
第2節 異質な諸要素の並置・対照
雑多なテクストと「作者」
第3節 多層化する語り
歴史のくびき/東 / 西、現実 / 架空世界を相対化するまなざし
終 章 移民 / 移動文学が照らし出す国境地帯
〈付録〉作家インタビュー
1 クシシュトフ・マリア・ザウスキ
2 クシシュトフ・ニェヴジェンダ
3 ヤヌシュ・ルドニツキ
4 ダリウシュ・ムッシェル
作家インタビューに寄せて
インタビューの方法、場所、対話性/インタビューがもたらすもの1―証言とし
ての性格/インタビューがもたらすもの2―文字テクストからは得られない、声
としての「ことば」/インタビューがもたらすもの3―移民文学の文学性を理解
するヒント/文学テクストとインタビューの循環/変化する作家の自画像、ある
いは乱反射する作家の「ことば」
あとがき
注
参考文献
関連年表
著者紹介
井上暁子(いのうえ さとこ)
東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学、東京大学)。
熊本大学文学部准教授(比較文学)。専門はポーランド語圏を中心とした中東欧文学。
主要著書:
『東欧文学の多言語的トポス』(編著、水声社、2020年)
『ヴァイゼル・ダヴィデク』(訳書、松籟社、2021年)