内容紹介
本書は、前近代的な宗教思想であった「第三の国」das dritte Reich が、近代的な社会思想として展開し、ナチスの「第三帝国」das Dritte Reich へと変容していく過程を明らかにする。12世紀イタリアで生じた歴史を三分割する思想が、ナチスの語彙とは異なる意味で用いられ、19世紀後半から第一次世界大戦期までのヨーロッパやロシア、それに日本に多大な影響を与えたことは、いまだ学術的に究明されていない。
「第三の国」の言説をめぐる以上のような研究状況の中で、トーマス・マンを考察の中心に据えて「黙示録文化」を検討し続けてきた著者は、黙示録の解釈を三位一体説にもとづいていわば歴史化したフィオーレのヨアキム、そしてヨアキムの思想が中世や近世にもたらした宗教的な影響としての「ヨアキム主義」と近代以降にもたらした社会思想史的な影響としての「ネオ・ヨアキム主義」に行き着いた。
さらに、「ネオ・ヨアキム主義」の思想的核心となる「第三の国」にはドイツを中心とする西側の受容とロシアを中心とする東側の受容とがあり、両者の交点に、ドミートリー・メレシコフスキー、ワシリー・カンディンスキー、トーマス・マンなどが存在することや、「今や我国にも「第三帝国」の声は高い」という第一次世界大戦直前の日本における言説があることに気づき、現在にいたっている。
「第三の国」は、画一的なナショナルな国粋主義思想ではなく、「第三帝国」と出自をともにしながらも、多様なトランス・ナショナルな自由主義思想でなかったか。この問いに答えるべく、本書は「第三帝国」以前の「第三の国」を国内外で初めて本格的に検討する。その際、本書が特に留意する点として、
・ 考察が手薄だった19世紀後半から1930年頃までにおける「第三の国」をめぐる文学的言説に特に注目し、
・ 政治思想としての「第三の国」が「第三帝国」へと変容していく過程も見逃さず、
・ ナショナル・ヒストリーになりがちな従来の研究とは異なり、トランス・ナショナルな観点を取り込み、
・ これまでまったく扱われてこなかった分野やモティーフ(抽象絵画、観相学、背教者)も扱う。
以上の点を踏まえて、本書がいかに未開拓領域に踏み込まなければならないかを示すために、取り扱う人物を挙げておこう。
・ ヨアキム的な時代区分を啓蒙主義に持ち込んだゴットホルト・エフライム・レッシング
・「第三王国の預言者」と称されたヘンリック・イプセン
・ ニーチェ神話にもとづく「第三の国」を意識したレーオ・ベルク
・ ロシアで三位一体の宗教を呼びかけたドミートリー・メレシコフスキー
・ 抽象絵画の到来を「新しい精神の国」と見なしたワシリー・カンディンスキー
・ 1900年にベルリーン小説として『第三の国』を上梓したヨハネス・シュラーフ
・「第三の国」を自らの観相学に取り込んだルードルフ・カスナー
・ 悲劇『第三の国』を1910年に世に問うたパウル・フリードリヒ
・ 1913年に雑誌『第三帝国』を日本で創刊した茅原華山
・「第三の国」の理念を「ゲルマン的理想」と批判したオスヴァルト・シュペングラー
・ 1923年に『第三の国』を世に問うたメラー・ファン・デン・ブルック
・「宗教的人間愛の第三の国」を希求したトーマス・マン
・ 1930年代にナチスとは異なる「第三の国」を標榜したヘルマン・ヘッセ
・「第三の国」の理念を革命の側に取り戻そうとしたエルンスト・ブロッホ
・ 1934年に「第三の国」の実現を確信した独文学者ユーリウス・ペーターゼン
「第三の国」が「第三帝国」に変容する過程は決して他人事ではない。私たちは1930年代よりもはるかにナチス・ドイツに関する深い知見をもつが、しかしながら、ナチス・ドイツの時代よりも現代の方がNationalsozialismus の訳語をめぐる混迷を特に教育現場で深めている。このドイツ語を、漢字を用いて日本語に置き換えようとした場合、どのように表記したらよいのであろうか。訳語問題は、言葉の問題であるにもかかわらず、いや、言葉の問題だからこそ、過去と現在と未来をつなぐ。Nationalsozialismusの訳語はいわば私たちのメッセージとして未来に送られる。